熟成塩蔵紅鮭の変遷

弁材船

瀬戸内海沿岸で入浜式塩田法による製塩(十州塩)が江戸期に確立されると、塩の大量生産が可能になりました。これを北前船で択捉島に持ち込み、現地で水揚げされた紅鮭を「塩引」とよばれる塩蔵法で加工をしていました。この塩蔵紅鮭は北前船の復路で輸送され、主に上方で流通していました。ここでの「塩引」とは鮭特有の塩蔵法で、鮭を山のように積み上げ、塩のみで脱水・発酵熟成させる製法です。現在通称とされている「山漬け」の原形といわれています。時代は下り、昭和になると千島列島やカムチャッカ半島の沖合いで紅鮭を流し網漁で漁獲し、船内にて裁割したあと山漬け処理をして熟成するようになりました。このため「本漬紅鮭」または本物という意味の「本チャン紅鮭」と呼ばれています。しかしながら平成28年から、この流し網漁は禁止となり、長年親しまれた本チャン紅鮭の生産は見通しが立たなくなりました。それでもいまだに塩辛い鮭を好む人が多い理由は、米を主食としていることはもちろん、江戸時代から続く民族的な嗜好の伝承と考えられます。

根室・花咲港に停泊する中型船と小型船

江戸後期の高田屋嘉兵衛を描いた小説『菜の花の沖』(司馬遼太郎著)の中でも山漬けの描写があります。

食用として珍重されるのは、紅鱒であった。紅鱒は肉が赤く、一見、鮭に似ている。本鱒とはちがい、脂肪が多くはなはだ美味で、蝦夷地一帯ではこのエトロフ島が主産地であることを嘉兵衛はこの島にきてから知った。
 当然ながら嘉兵衛は紅鱒を食品として浜で加工し、輸送した。
 加工は、塩を施すことである。魚に塩をすることを、この当時、塩切とか塩引とかといった。
(中略)
 浜での作業は腹を割いてはらわたをとりすてる。そのあと、作業小屋へ運ぶ。
 作業小屋では腹と頭へたっぷり塩を詰め、魚体を縦横に積みかさねる。一積みごとに塩を撒く。一定の高さまで積みおわると、もう一度大量に塩をふりかけ、一荷の荷にするのである。
 それだけではなお足りない。一荷ごとに敦賀で積んだ莚をかぶせ、通気をふせぎ、七、八日経って塩がやや溶けはじめたとき「手返し」と称して荷をさかさまにする。このときもう一度、塩を加える。さらに十日以上をへてふたたび「手返し」をし、しかるのちに船積みするのである。
 (出典・小説『菜の花の沖』司馬遼太郎著)


江戸後期の高田屋嘉兵衛を描いた小説『菜の花の沖』(司馬遼太郎著)の中でも山漬けの描写があります。

    食用として珍重されるのは、紅鱒であった。紅鱒は肉が赤く、一見、鮭に似ている。本鱒とはちがい、脂肪が多くはなはだ美味で、蝦夷地一帯ではこのエトロフ島が主産地であることを嘉兵衛はこの島にきてから知った。
 当然ながら嘉兵衛は紅鱒を食品として浜で加工し、輸送した。
 加工は、塩を施すことである。魚に塩をすることを、この当時、塩切とか塩引とかといった。
(中略)
 浜での作業は腹を割いてはらわたをとりすてる。そのあと、作業小屋へ運ぶ。
 作業小屋では腹と頭へたっぷり塩を詰め、魚体を縦横に積みかさねる。一積みごとに塩を撒く。一定の高さまで積みおわると、もう一度大量に塩をふりかけ、一荷の荷にするのである。
 それだけではなお足りない。一荷ごとに敦賀で積んだ莚をかぶせ、通気をふせぎ、七、八日経って塩がやや溶けはじめたとき「手返し」と称して荷をさかさまにする。このときもう一度、塩を加える。さらに十日以上をへてふたたび「手返し」をし、しかるのちに船積みするのである。
 
(出典・小説『菜の花の沖』司馬遼太郎著)